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第十一話 天流会 (実践編)

Author: 春埜馨
last update Last Updated: 2025-10-06 14:58:52

 翌日の追試は、|師玉寧《シーギョクニン》から受けた手解きも相まって、|墨余穏《モーユーウェン》は無事満点で合格した。

 合格者はすぐに符門善書を元に、実際の呪符を使った実践項目へと進む。

 呪符の扱いに関して、|墨余穏《モーユーウェン》は自信があった。幼い頃からおもちゃのように扱い、|豪剛《ハオガン》の知識を全て受け継いでいるからだ。

 しかし、皆の鑑である|師玉寧《シーギョクニン》と道術を競う項目では、どれだけ強力な呪符を書いても、どれだけ武術を駆使したとしても、|師玉寧《シーギョクニン》の驚異的な能力には敵わなかった。

 ある日|墨余穏《モーユーウェン》は、どうしたら|師玉寧《シーギョクニン》のように強くなれるか、本人にそれとなく聞いてみた。

 すると|師玉寧《シーギョクニン》は相変わらずの仏頂面でこう答えたのだ。

「己の弱さを認めれば強くなれる。誰かを真似た強さは偽りだ」と。

 |墨余穏《モーユーウェン》はずっと、誰よりも強いと思っていた。

 弱さを認めるなど、師範への冒涜に過ぎない。

 |豪剛《ハオガン》のような強い者に倣えば、自分もそうなれると信じ、勝手に思い込んでいたのだ。しかし、誰かのようになりたいという、際限のないその貪欲こそが弱さを生む。

 |師玉寧《シーギョクニン》はもう一つ大切なことを言っていた。

「強さを量る基準は悪をどれだけ倒せたかではない。守りたいものをどれだけ守れたかだ」とも。

 |墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》の言葉を聞いてしばらく人と距離を置き、自分を見つめ直す時間を作った。

 残り半月になったある日、最終項目である水中呪符を用いた実践を行う為、一同は天台山から少し離れた清流湖へ向かっていた。

 しばらく歩くと、青く澄んだ真っさらな湖面が見え始める。

 |墨余穏《モーユーウェン》は、世の中にはこんな綺麗な湖が存在するのか! と、己の見識の狭さと感動を同時に体感した。

 隣にいた|張秋《ジャンチウ》と少しばかり話していると、|道玄天尊《ドウゲンてんずん》の側近であるという|深月師尊《シェンユエしずん》がやってきた。

 物凄い長身であると噂では聞いてはいたが、|師玉寧《シーギョクニン》よりも精悍な男で、まるで壁が立っているかのような存在感を醸し出している。

「さぁ、今日は清流湖で投水符法の実技だ。さっそくあの五つに並ぶ船にそれぞれ五人ずつ乗ってもらう」

 |深月師尊《シェンユエしずん》から指示があったとおり、一同はそれぞれに分かれて船に乗り込んだ。|墨余穏《モーユーウェン》と|張秋《ジャンチウ》は、誰も乗りたがらなかった|金冠明《ジングァンミン》のいる船に乗り込む。

 金冠明は、|墨余穏《モーユーウェン》を見るや否や、厳しい言葉を飛ばした。

「足を引っ張るなよ|墨余穏《モーユーウェン》。もし、お前のせいで私に不利なことが起きたら、ただじゃ済まないからな!」

「はいはい。何もしないって」

 |墨余穏《モーユーウェン》は下唇を出して、自分の伸びた爪を眺めながら嫌そうに返事をする。

 隣にいた|張秋《ジャンチウ》は肩をすくめ、二人は顔を見合わせて大人しくやり過ごした。

 先頭の船から、|深月師尊《シェンユエしずん》の声が聞こえ始める。

「いいか、この湖の中には何もいないが、投水符法を使う時は主に水中にいる妖魔を倒す時に使う。地上とは違い、呪符に二倍の功力を入れなければならない。それと━︎━︎」

 |深月師尊《シェンユエしずん》の話を聞きながら、|墨余穏《モーユーウェン》は清流湖の水面をぼんやり眺めていると、ほんの一瞬、大きな魚が泳ぐ黒い影を見たような気がした。

 (ん? ここは何もいないんじゃないのか? )

 他の船の周りを見てみるが、特に何も異変はない。

 ただの見間違えだろうかと、|墨余穏《モーユーウェン》はまた|深月師尊《シェンユエしずん》の方へ顔を向ける。

 だが、まだ何の指示も受けていないというのに、何を思ったのか|金冠明《ジングァンミン》が突然、|紙人術《しじんじゅつ》を取り出して清流湖に投げ入れた。

 (あいつ、何しやがった?! )

 |墨余穏《モーユーウェン》は眉間に皺を寄せ、|金冠明《ジングァンミン》を一瞥していると、たちまち乗っている船が揺れ始めた。まるで、底から何者かに揺らされているかのようだ。

「|深月師尊《シェンユエしずん》! やはり何かいます!」

 どうやら何か気配を感じたのは|墨余穏《モーユーウェン》だけではなかったようだ。|金冠明《ジングァンミン》が大声でそう言うと、放出した紙人術で呼び寄せた妖魔たちの顔だけが、続々と水面から浮き出てくる。

「あれは、人面獣身の|陵魚《りょうぎょ》だ! お前たちは船を降りて陸へ上がれ!」

 |深月師尊《シェンユエしずん》はそう言うと、天台山の特別な呪符である|神呪《しんじゅ》を胸元から取り出し、右手の人差し指と中指のみを立てて刀印を結び、その神呪を水面に乗せた。

 同時に|墨余穏《モーユーウェン》たちも陸へ上がろうと、船を寄せて降りようとした刹那、凪のような水面から突如巨大な陵魚が現れ、紙人術を使った|金冠明《ジングァンミン》を船から引き摺り下ろそうとした。

 それに気づいた|墨余穏《モーユーウェン》は、|金冠明《ジングァンミン》の手を思いっきり引っぱり、金冠明と入れ替わるように自分が代わりに湖へと飛び込んだ。

「|墨逸《モーイー》!」

 思わず|張秋《ジャンチウ》が叫ぶ!

 すぐに|深月師尊《シェンユエしずん》が湖に飛び込み、次に天女のような白い衣を広げた男が皆の前を風の如く横切り、もの凄い速さで湖の中へ潜っていった。

 引き摺られた|墨余穏《モーユーウェン》は、水中の中で行気を巡らせ、持っていた霊符を放つが息が持たず気を失いそうになる。力が入らず身体だけがふんわりと浮かび、ぼんやりと僅かな光を眺めていると、白い大きなものが近づいてくるのが分かった。そして、その者にそっと唇を塞がれた気がしたのだが、|墨余穏《モーユーウェン》はそのまま気を失ってしまった━︎━︎。

 一方、陸に上がっていた皆は固唾を飲み、三人が浮き上がってくるのをただひたすら待っていた。

 |金冠明《ジングァンミン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に勢いよく掴まれた腕を摩りながら、前のめりになって無事を祈っている。

 すると、ぶくぶくと水面に気泡が現れ三人の顔が現れた!

 どうやら水中の中で、|深月師尊《シェンユエしずん》と|師玉寧《シーギョクニン》が|墨余穏《モーユーウェン》を救ったと同時に神符をそれぞれ放出し、陵魚を封印したようだ。

 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は力なくぐったりした様子で|師玉寧《シーギョクニン》に抱えられている。

 すぐに蘇生が必要だ。陸に上がった|師玉寧《シーギョクニン》はすぐ|墨余穏《モーユーウェン》の鼻を摘み、顎をぐっと上に持ち上げ、息を吹き込むように唇を塞いだ。

 それを何度か繰り返すと、|墨余穏《モーユーウェン》は水を吹き出し、咽せる咳を繰り返すようにして息を吹き返した!

「ゴホッ、ゴボッ、ゴホッ、うっ……。シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」

「大丈夫か?」

「ありがと……」

 息も絶え絶えな|墨余穏《モーユーウェン》は、薄ら笑いを浮かべて礼を言った。そこに、居た堪れないといった様子の|金冠明《ジングァンミン》がやってくる。

「|墨余穏《モーユーウェン》……、大丈夫か? 私のせいですまない……」

「いいって。|金《ジン》公子が無事ならそれでいい」

 あんなに|墨余穏《モーユーウェン》を毛嫌いしていた|金冠明《ジングァンミン》は、その言葉を聞いて、起き上がろうとしていた|墨余穏《モーユーウェン》の背中を支え始めた。

 墨余穏は驚き、金冠明に言う。

「急にどうしたんだよ……、俺のこと嫌いじゃなかったのか?」

「考えが変わった。恩人を毛嫌いする理由はないだろう」

「はははっ、そうか。じゃ、頼らせてもらうよ……肩を貸して」

 こうして、最終項目の実践は中止になりその日は解散となった。

 この日から|金冠明《ジングァンミン》は、|墨余穏《モーユーウェン》のことを『|墨逸《モーイー》』と呼ぶようになり、師玉寧、葉風安と同じ、生涯の友の一人となった。

 そして、全員が全ての項目を履修し、天流会を離れる最終日。

 それぞれの荷物を部屋へ取りに行き解散なのだが、|墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》を探していた。

 (|賢寧《シェンニン》兄、どこにいるんだろ……。もう帰っちゃったかな? )

 他の道士たちに尋ねてみるが、「さっきそこにいた」だの「もう帰った」だの、|師玉寧《シーギョクニン》の居場所を掴めずにいた。天台山の敷地内をいくら探しても|師玉寧《シーギョクニン》の姿は見当たらない。

 目の前を通っていく|葉風安《イェフォンアン》や|金冠明《ジングァンミン》、|張秋《ジャンチウ》に「また会おう」と別れを告げ、|墨余穏《モーユーウェン》はひとり、|師玉寧《シーギョクニン》と出会った分かれ道の前でしばらく待つことにした。

 どうしても|師玉寧《シーギョクニン》にこれを渡したい。

 |墨余穏《モーユーウェン》は胸に、小ぶりな水仙の花を忍ばせていた。

 しばらく待っても|墨余穏《モーユーウェン》の待ち人は来ない。そろそろ二炷香は経つ頃だ。

 |墨余穏《モーユーウェン》はこれ以上この山にいると帰れなくなると思い、重い腰を上げる。

 やはり先に帰ってしまったんだろうと、|墨余穏《モーユーウェン》が諦めかけたその時、天台山の方から白い衣の男が歩いてくるのが見えた。

 思わず|墨余穏《モーユーウェン》の目から光芒が溢れる。

「|賢寧《シェンニン》兄!」

 |墨余穏《モーユーウェン》が手を振りながらそう言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は驚いた様子で、目を凝らした。

「何故ここにいる? もう家に着く頃だろう」

「待ってたんだよ。これを渡したくて」

 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言うと、胸元から形を整えながら水仙の花を一つ取り出した。

「休み時間にさ、花が綺麗な所があるって聞いて行ったんだよ。そしたら、水仙の花が凄く綺麗に咲いてて、そこを管理している人に相談したら一本譲ってもらえたんだ。|賢寧《シェンニン》兄、明日誕生日なんでしょ? はい。助けてもらった御礼と、そのお祝い」

 |師玉寧《シーギョクニン》は面食らった様子で、差し出された水仙の花を受け取る。|墨余穏《モーユーウェン》は続けた。

「また|賢寧《シェンニン》兄とどこかで会えるかな?」

「縁があればまた会えるだろう」

 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の言葉を聞いて、口元を緩めた。

「じゃあ、元気でね」

 |墨余穏《モーユーウェン》は満足気にそう言って、急ぎ足で走っていく。

 少し走った先で、ふと止まり|墨余穏《モーユーウェン》は後ろを振り向いた。

 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は水仙の花を夕日に翳しながら、誰にも見せないであろう絹のような柔らかい表情で、微笑んでいたのだった。

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