LOGIN翌日の追試は、|師玉寧《シーギョクニン》から受けた手解きも相まって、|墨余穏《モーユーウェン》は無事満点で合格した。
合格者はすぐに符門善書を元に、実際の呪符を使った実践項目へと進む。 呪符の扱いに関して、|墨余穏《モーユーウェン》は自信があった。幼い頃からおもちゃのように扱い、|豪剛《ハオガン》の知識を全て受け継いでいるからだ。 しかし、皆の鑑である|師玉寧《シーギョクニン》と道術を競う項目では、どれだけ強力な呪符を書いても、どれだけ武術を駆使したとしても、|師玉寧《シーギョクニン》の驚異的な能力には敵わなかった。 ある日|墨余穏《モーユーウェン》は、どうしたら|師玉寧《シーギョクニン》のように強くなれるか、本人にそれとなく聞いてみた。 すると|師玉寧《シーギョクニン》は相変わらずの仏頂面でこう答えたのだ。 「己の弱さを認めれば強くなれる。誰かを真似た強さは偽りだ」と。 |墨余穏《モーユーウェン》はずっと、誰よりも強いと思っていた。 弱さを認めるなど、師範への冒涜に過ぎない。 |豪剛《ハオガン》のような強い者に倣えば、自分もそうなれると信じ、勝手に思い込んでいたのだ。しかし、誰かのようになりたいという、際限のないその貪欲こそが弱さを生む。 |師玉寧《シーギョクニン》はもう一つ大切なことを言っていた。 「強さを量る基準は悪をどれだけ倒せたかではない。守りたいものをどれだけ守れたかだ」とも。 |墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》の言葉を聞いてしばらく人と距離を置き、自分を見つめ直す時間を作った。 残り半月になったある日、最終項目である水中呪符を用いた実践を行う為、一同は天台山から少し離れた清流湖へ向かっていた。 しばらく歩くと、青く澄んだ真っさらな湖面が見え始める。 |墨余穏《モーユーウェン》は、世の中にはこんな綺麗な湖が存在するのか! と、己の見識の狭さと感動を同時に体感した。 隣にいた|張秋《ジャンチウ》と少しばかり話していると、|道玄天尊《ドウゲンてんずん》の側近であるという|深月師尊《シェンユエしずん》がやってきた。 物凄い長身であると噂では聞いてはいたが、|師玉寧《シーギョクニン》よりも精悍な男で、まるで壁が立っているかのような存在感を醸し出している。 「さぁ、今日は清流湖で投水符法の実技だ。さっそくあの五つに並ぶ船にそれぞれ五人ずつ乗ってもらう」 |深月師尊《シェンユエしずん》から指示があったとおり、一同はそれぞれに分かれて船に乗り込んだ。|墨余穏《モーユーウェン》と|張秋《ジャンチウ》は、誰も乗りたがらなかった|金冠明《ジングァンミン》のいる船に乗り込む。 金冠明は、|墨余穏《モーユーウェン》を見るや否や、厳しい言葉を飛ばした。 「足を引っ張るなよ|墨余穏《モーユーウェン》。もし、お前のせいで私に不利なことが起きたら、ただじゃ済まないからな!」 「はいはい。何もしないって」 |墨余穏《モーユーウェン》は下唇を出して、自分の伸びた爪を眺めながら嫌そうに返事をする。 隣にいた|張秋《ジャンチウ》は肩をすくめ、二人は顔を見合わせて大人しくやり過ごした。 先頭の船から、|深月師尊《シェンユエしずん》の声が聞こえ始める。 「いいか、この湖の中には何もいないが、投水符法を使う時は主に水中にいる妖魔を倒す時に使う。地上とは違い、呪符に二倍の功力を入れなければならない。それと━︎━︎」 |深月師尊《シェンユエしずん》の話を聞きながら、|墨余穏《モーユーウェン》は清流湖の水面をぼんやり眺めていると、ほんの一瞬、大きな魚が泳ぐ黒い影を見たような気がした。 (ん? ここは何もいないんじゃないのか? ) 他の船の周りを見てみるが、特に何も異変はない。 ただの見間違えだろうかと、|墨余穏《モーユーウェン》はまた|深月師尊《シェンユエしずん》の方へ顔を向ける。 だが、まだ何の指示も受けていないというのに、何を思ったのか|金冠明《ジングァンミン》が突然、|紙人術《しじんじゅつ》を取り出して清流湖に投げ入れた。 (あいつ、何しやがった?! ) |墨余穏《モーユーウェン》は眉間に皺を寄せ、|金冠明《ジングァンミン》を一瞥していると、たちまち乗っている船が揺れ始めた。まるで、底から何者かに揺らされているかのようだ。 「|深月師尊《シェンユエしずん》! やはり何かいます!」 どうやら何か気配を感じたのは|墨余穏《モーユーウェン》だけではなかったようだ。|金冠明《ジングァンミン》が大声でそう言うと、放出した紙人術で呼び寄せた妖魔たちの顔だけが、続々と水面から浮き出てくる。 「あれは、人面獣身の|陵魚《りょうぎょ》だ! お前たちは船を降りて陸へ上がれ!」 |深月師尊《シェンユエしずん》はそう言うと、天台山の特別な呪符である|神呪《しんじゅ》を胸元から取り出し、右手の人差し指と中指のみを立てて刀印を結び、その神呪を水面に乗せた。 同時に|墨余穏《モーユーウェン》たちも陸へ上がろうと、船を寄せて降りようとした刹那、凪のような水面から突如巨大な陵魚が現れ、紙人術を使った|金冠明《ジングァンミン》を船から引き摺り下ろそうとした。 それに気づいた|墨余穏《モーユーウェン》は、|金冠明《ジングァンミン》の手を思いっきり引っぱり、金冠明と入れ替わるように自分が代わりに湖へと飛び込んだ。 「|墨逸《モーイー》!」 思わず|張秋《ジャンチウ》が叫ぶ! すぐに|深月師尊《シェンユエしずん》が湖に飛び込み、次に天女のような白い衣を広げた男も皆の前を風の如く横切り、もの凄い速さで湖の中へ潜っていった。 引き摺られた|墨余穏《モーユーウェン》は、水中の中で行気を巡らせ、持っていた霊符を放つが息が持たず気を失いそうになる。力が入らず身体だけがふんわりと浮かび、ぼんやりと僅かな光を眺めていると、白い大きなものが近づいてくるのが分かった。そして、その者にそっと唇を塞がれた気がしたのだが、|墨余穏《モーユーウェン》はそのまま気を失ってしまった━︎━︎。 一方、陸に上がっていた皆は固唾を飲み、三人が浮き上がってくるのをただひたすら待っていた。 |金冠明《ジングァンミン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に勢いよく掴まれた腕を摩りながら、前のめりになって無事を祈っている。 すると、ぶくぶくと水面に気泡が現れ三人の顔が現れた! どうやら水中の中で、|深月師尊《シェンユエしずん》と|師玉寧《シーギョクニン》が|墨余穏《モーユーウェン》を救ったと同時に神符をそれぞれ放出し、陵魚を封印したようだ。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は力なくぐったりした様子で|師玉寧《シーギョクニン》に抱えられている。 すぐに蘇生が必要だ。陸に上がった|師玉寧《シーギョクニン》はすぐ|墨余穏《モーユーウェン》の鼻を摘み、顎をぐっと上に持ち上げ、息を吹き込むように唇を塞いだ。 それを何度か繰り返すと、|墨余穏《モーユーウェン》は水を吹き出し、咽せる咳を繰り返すようにして息を吹き返した! 「ゴホッ、ゴボッ、ゴホッ、うっ……。シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」 「大丈夫か?」 「ありがと……」 息も絶え絶えな|墨余穏《モーユーウェン》は、薄ら笑いを浮かべて礼を言った。そこに、居た堪れないといった様子の|金冠明《ジングァンミン》がやってくる。 「|墨余穏《モーユーウェン》……、大丈夫か? 私のせいですまない……」 「いいって。|金《ジン》公子が無事ならそれでいい」 あんなに|墨余穏《モーユーウェン》を毛嫌いしていた|金冠明《ジングァンミン》は、その言葉を聞いて、起き上がろうとしていた|墨余穏《モーユーウェン》の背中を支え始めた。 墨余穏は驚き、金冠明に言う。 「急にどうしたんだよ……、俺のこと嫌いじゃなかったのか?」 「考えが変わった。恩人を毛嫌いする理由はないだろう」 「はははっ、そうか。じゃ、頼らせてもらうよ……肩を貸して」 こうして、最終項目の実践は中止になりその日は解散となった。 この日から|金冠明《ジングァンミン》は、|墨余穏《モーユーウェン》のことを『|墨逸《モーイー》』と呼ぶようになり、師玉寧、葉風安と同じ、生涯の友の一人となった。 そして、全員が全ての項目を履修し、天流会を離れる最終日。 それぞれの荷物を部屋へ取りに行き解散なのだが、|墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》を探していた。 (|賢寧《シェンニン》兄、どこにいるんだろ……。もう帰っちゃったかな? ) 他の道士たちに尋ねてみるが、「さっきそこにいた」だの「もう帰った」だの、|師玉寧《シーギョクニン》の居場所を掴めずにいた。天台山の敷地内をいくら探しても|師玉寧《シーギョクニン》の姿は見当たらない。 目の前を通っていく|葉風安《イェフォンアン》や|金冠明《ジングァンミン》、|張秋《ジャンチウ》に「また会おう」と別れを告げ、|墨余穏《モーユーウェン》はひとり、|師玉寧《シーギョクニン》と出会った分かれ道の前でしばらく待つことにした。 どうしても|師玉寧《シーギョクニン》にこれを渡したい。 |墨余穏《モーユーウェン》は胸に、小ぶりな水仙の花を忍ばせていた。 しばらく待っても|墨余穏《モーユーウェン》の待ち人は来ない。そろそろ二炷香は経つ頃だ。 |墨余穏《モーユーウェン》はこれ以上この山にいると帰れなくなると思い、重い腰を上げる。 やはり先に帰ってしまったんだろうと、|墨余穏《モーユーウェン》が諦めかけたその時、天台山の方から白い衣の男が歩いてくるのが見えた。 思わず|墨余穏《モーユーウェン》の目から光芒が溢れる。 「|賢寧《シェンニン》兄!」 |墨余穏《モーユーウェン》が手を振りながらそう言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は驚いた様子で、目を凝らした。 「何故ここにいる? もう家に着く頃だろう」 「待ってたんだよ。これを渡したくて」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言うと、胸元から形を整えながら水仙の花を一つ取り出した。 「休み時間にさ、花が綺麗な所があるって聞いて行ったんだよ。そしたら、水仙の花が凄く綺麗に咲いてて、そこを管理している人に相談したら一本譲ってもらえたんだ。|賢寧《シェンニン》兄、明日誕生日なんでしょ? はい。助けてもらった御礼と、そのお祝い」 |師玉寧《シーギョクニン》は面食らった様子で、差し出された水仙の花を受け取る。|墨余穏《モーユーウェン》は続けた。 「また|賢寧《シェンニン》兄とどこかで会えるかな?」 「縁があればまた会えるだろう」 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の言葉を聞いて、口元を緩めた。 「じゃあ、元気でね」 |墨余穏《モーユーウェン》は満足気にそう言って、急ぎ足で走っていく。 少し走った先で、ふと止まり|墨余穏《モーユーウェン》は後ろを振り向いた。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は水仙の花を夕日に翳しながら、誰にも見せないであろう絹のような柔らかい表情で、微笑んでいたのだった。「シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」 「人様の家で何をしている」 |師玉寧《シーギョクニン》の目は据わり、幾重にも連なる氷瀑の先が今にも頭上に落ちてきそうな刺々しい雰囲気を纏っている。|墨余穏《モーユーウェン》は額に冷や汗を滲ませ、口元を引き結ぶ。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は続けた。 「何故、勝手に出て行った?」 「そ、それは……」「何だ?」「俺がいると迷惑かなっと思って……」 視線を合わすことに耐えかねた|墨余穏《モーユーウェン》は、俯きながら|師玉寧《シーギョクニン》から向けられる冷たい視線を逸らした。 師玉寧は深く溜め息を吐き、墨余穏に言う。「私がいつ迷惑だと言った?」「……だって、俺がずっと側にいたらさ|賢寧《シェンニン》兄の好きな人が嫌がるでしょ。だから、俺とは居ない方が……」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》の言葉を遮ったと思ったら、墨余穏の胸ぐらを勢いよく掴んで逞しく引き締まった己の身体に引き寄せた!「私に二度と心配をかけさせるな!! 分かったか!!」 深雪のような白い肌が血に染まるが如く、師玉寧は血相を変えて怒鳴りつけた。感情的な|師玉寧《シーギョクニン》を初めて見た|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず顔を引き攣らせ怖気付く。 |師玉寧《シーギョクニン》は更に声を荒げた。「お前は、黙って私の横に居ればいい!!」「で、でも、それじゃ……」「でも何だ?! まだ何か文句があるのか?! これ以上無駄口を叩くならば、霊符に封印するぞ!!」「……」 |師玉寧《シーギョクニン》の黄玉の瞳が激しく揺れている。 その瞳の奥から、猛獣の如く獲物を独占したいという欲望が溢れていた。墨余穏はどうする事もできず口を閉ざす。 師玉寧からようやく胸ぐらを解放され、墨余穏はよろけた身体を立て直し、そっと首元を整えた。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に背を向け、声だけを墨余穏に向ける。「|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ急ぐぞ。|風立《フォンリー》が危ない」「……何があったの?」 |墨余穏《モーユーウェン》は怪訝そうに訊ねると、|師玉寧《シーギョクニン》は小さく溜め息を漏らし、言葉を繋げた。「突厥に捕まったと神通符が届いた。その中にはお前を襲った|呂熙《リュ
|墨余穏《モーユーウェン》の心の水面は凪の如く落ち着き、正気を取り戻すと、|趙沁《ジャオチン》の言っていた|栄穂村《ろんすいむら》に到着した。 古い家屋が並び、奥にはだだっ広い田畑が広がっている。 その横には馬や牛、山羊などの動物たち飼育されており、酪農の独特な香りが漂っていた。 「ここが僕たちの住む村だよ。僕たちは皆農家なんだ。五十人も満たない小さな村だけど、皆仲良くやっているよ」「へぇ。そうなのか。ちなみに、|趙沁《ジャオチン》は何を作ってるんだ?」「僕は、山羊を飼育している。ここの村の山羊肉やお乳はとっても美味しいだ。良かったら食べていかない? 後でご馳走するよ」 山羊肉が好物な|墨余穏《モーユーウェン》はそれを聞いて、口の中を涎で満たした。 墨余穏は溢れてくる生唾を飲み込みながら、案内された家まで趙沁を運ぶ。すると、趙沁の背負われた姿に気づいた村の長老が、何事かと顔を曇らせて駆け寄って来る。「|趙沁《ジャオチン》! 一体どうしたんだ! 何があったんだい?!」「あ、|長豊《チャンフォン》さん。いやぁ〜、山道を下ろうとしたら足を滑らせてしまって。ちょうど近くにいたこちらの|墨逸《モーイー》仙君に助けてもらったんだ」 長老の|長豊《チャンフォン》はそれを聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》に小さく頭を下げた。続けて、「あまり無理をするな」と|趙沁《ジャオチン》に言うと、長豊は墨余穏の背中から降りようとする趙沁の背中を支え、椅子に座らせた。趙沁の様子に安堵したのか、長豊がゆっくりと顔を綻ばせる。「仙君。うちの村の者を助けてくださり、ありがとうございました。礼は尽くしますので、今しばらくこちらでお待ちください」 「あ、|長豊《チャンフォン》さん、僕の所にある山羊の肉もお願いできる?」「あぁ、分かったよ! 茶も持ってくるから、ゆっくりしていな」「礼には及ばない」と|墨余穏《モーユーウェン》は言うも、長豊は全く聞き耳を持たず、外へ出て行ってしまった。 |趙沁《ジャオチン》は鼻を掻きながら墨余穏に言う。「気にせず甘えていいから。僕も|墨逸《モーイー》ともう少し話がしたいから、ここにいて」「なんか、申し訳ないなぁ。ありがとう」 |墨余穏《モーユーウェン》は控えめな笑みを見せた。 すると、|趙沁《ジャオチン》がおぼつかない足取りで、薬
物々しい雰囲気が漂う鴉の住処で、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》は、虚な目をして黒石の冷えた床に額を付けていた。 「お前はまだ、|緑稽山《りょくけいざん》を仕留められないのか?」 石の床が僅かに震えるほど低い威圧的な声が、青鳴天の耳に襲い掛かる。「はい……」と震える声で答えながら、青鳴天は更に額を床に擦り付けた。 「お前は一体、どこで何をしている。天台山の力が弱まった今、我々が天下を取れる千載一遇の好機なのだぞ。|阿可《アーグァ》と手を組んでやっているというのに、お前と来たらこの有り様か。これ以上、私を絶望させないでくれ」 「……申し訳ありません。父上」 自分の倅だというのに、居丈高で有名な鳥鴉盟の盟主•|天晋《ティェンシン》は、害虫でも見るような目で青鳴天を見下ろしていた。 天晋は、僅かに肩を震わす|青鳴天《チンミンティェン》に向かって、更に言葉を振り下ろす。 「かつてお前が殺したはずの|墨余穏《モーユーウェン》が生きていると聞いた。まさか、それも仕留めそびれていたと言うんじゃないだろうな」 「ち、違います! 確かに私は奴を殺しました! けれど……」 青鳴天は顔を上げ、先日墨余穏と屈辱的な再会を果たしたことを、嫌悪感混じりに話した。 「━︎━︎あれは確かに、あの時のままの|墨余穏《モーユーウェン》でした。どうして甦ったのか、私にも分かりません」 「妙な話だ」 |天晋《ティェンシン》は伸びた髭を弄りながら|青鳴天《チンミンティェン》を見遣る。 青鳴天は続けた。 「巷の噂では、奴は今|寒仙雪門《かんせんせつもん》に身を寄せていると聞いています」 「寒仙雪門? 相変わらず|師《シー》門主も変わり者だな。あのような者を匿ったとて、何一つ良いことなどないのに」 「そうです! 父上の仰る通りです! あの者はもう一度私が必ず……」 |天晋《ティェンシン》は、お前がか? とでも言いたげに、|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥した。 その背筋が凍るような視線を感じた青鳴天は、それ以上言葉を繋げることができず、唇を噛みながら俯いた。 「ふん。まぁ、いい。奴は最後の砦にしよう。先ずは|緑琉門《りゅうりゅうもん》からだ。それから|寒仙雪門《かんせんせつもん》へ行けば、奴は自ずと消えるだろう」 天晋は陰湿な笑
|墨余穏《モーユーウェン》は胸の痛みを隠しながら、「そっか」と無理矢理笑みを作った。気まずくなるのが怖くて、墨余穏は更に言葉を続ける。「一緒に過ごせるといいね、その人と。もし、その人と|賢寧《シェンニン》兄が結婚したら、俺はちゃんと玉庵から出て行くから安心して。あ、もう出てった方がいいかな? |金王《ジンワン》先生に診てもらったら、そのまま俺は違う所へ行くよ。俺は|賢寧《シェンニン》兄が居なくても、どこでも生きていける」 鼻の奥がツンとした。 本心じゃないことを口走り、目縁がほんの少し濡れ始める。 墨余穏は師玉寧に見られないように、後ろを振り返って黒い袖で目縁を拭った。 すると、師玉寧はずっと瞳を揺らしながらこちらを見ている。「ん? どうした? |賢寧《シェンニン》兄」「……お前にも、好いている者がいるのか?」 言おうかどうか迷ったが、|墨余穏《モーユーウェン》はそれとなく答えた。「俺? あははははっ。そうだね、いるよ。死ぬ前からずっと思いを寄せてる人が。でも、その人は高嶺の花みたいでさ。ずっと触れられそうで触れられないんだよね。その人にも大切な人がいるみたいだし……」「そうなのか……」 これまで感じていた空気が、夕陽ごと一気に沈む。 女夜叉のせいで足止めを食らってしまった為、夜分に押し掛けるのは良くないと判断した二人は、山を登らず近くにあった簡易的な宿に身を寄せた。それぞれの部屋から大きな溜め息と鼻を啜る音が聞こえていたのは、誰も知らない。 重苦しい夜長がようやく明け、澄んだ朝がやってきた。 何事もなかったかのように二人はいつも通りの雰囲気で山を登り、無事|金王《ジンワン》医官の所へ到着した。 山奥に聳え立つ一軒の屋敷の外は、ありとあらゆる薬草で溢れかえっており、独特な匂いが漂っていた。簡易的な木の門の前で二人の姿を捉えた銀髪の長老・金王は、持っていた桶を真ん中で持って小さくお辞儀をする。|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》も丁寧に拱手し、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の紹介でここを訪ねたと話した。「はい。伺っておりますよ。天台山の若き道士が来られると。あなたが、あの|豪剛《ハオガン》の……。どうぞお二人ともお入りください」『お邪魔します』 同時に発した言葉が重なり、二人は互いを見遣る。 墨余穏は
|黄林《フゥァンリン》の後についていくと、|金龍台門《きんりゅうだいもん》の正門付近で、松明を持った人集りが見えてきた。 「何が起きたんだ?!」 眉間に皺を寄せながら|墨余穏《モーユーウェン》が黄林に尋ねると、黄林が口を開く前に|金冠明《ジングァンミン》が先に口火を切った。 「ここ最近、|金華《きんか》の猫という人間に化けた妖獣がこの周辺に出没し始め、男なら男根と金品を奪い、女なら下腹部の人肉……特に子を孕んでいる女子は母胎ごと取られるという悲惨な事件が頻発している」 「はぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》は顔半分を歪ませながら、その悲惨な現場を目撃する。丸裸の男が横たわり、下半身から悍ましい量の鮮血を漏らしている。まるで、血溜まりの上で身体が浮いているかのようだ。墨余穏は思わず、大事な部分を隠すかのように、身体をくの字にして縮こまった。「|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていた、根こそぎ取られるというのは、こういう意味なのか……」 顔を歪ませながら|墨余穏《モーユーウェン》がそう言うと、背後にいた|師玉寧《シーギョクニン》が死体を見ながら呟いた。「しかし、凄い血の量だ。余程、男に強い怨みがあるのだろうか?」「いや、まだ男ならこの程度で済みますが、孕んだ女子の死体はもっと悲惨ですよ……。顔も抉られ、原型を留めません。あれは言葉を失うぐらい、目も当てられませんよ……」 |金冠明《ジングァンミン》は俯きながら、そういう死体を幾つか見てきたと言う。俯く金冠明を見たあと、|墨余穏《モーユーウェン》は目線を死体に向けた。この死体と金華の猫との間に何があったのかは分からないが、少なからず金華の猫は人間の心を得てして、男女問わず人間に強い怨みを抱いていることは間違いない。金と男女の縺れは人の人生を狂わすと、|豪剛《ハオガン》が生前言っていたのを思い出し、墨余穏は小さく息を吐いた。 墨余穏はそっと、一途に想う恋の相手に視線を向ける。 その相手もまた、何かを思うように死体を見つめていた。「|水仙玉君《スイセンギョククン》。何か気になることでもあるのですか?」 |金冠明《ジングァンミン》が|師玉寧《シーギョクニン》に訊ねると、師玉寧は死体を見つめたまま小さな声で呟いた。「いや、昔を思い出しただけだ……」 聞いていた|墨余穏《
(何で先に行っちまったんだろ、|賢寧《シェンニン》兄は……。俺、何かしたのか? ) |墨余穏《モーユーウェン》は段々と親鳥に置いていかれた雛鳥のように寂しさを募らせ、怒りよりも疑問が膨れ上がってきた。|師玉寧《シーギョクニン》の行動が全く理解できず、|墨余穏《モーユーウェン》は自分に何か非があったのか、何か怒らせるようなことをしたのか、考えを巡らせる。 (行きに俺が冷たくあしらったからか? もしかして昨日の夜、飲めなかった一葉茶を庭先にこっそり捨てたのを知っているとか? いや、そんな単純じゃないか。ん〜……、あ、そうか! |香翠天尊《シィアンツイてんずん》が俺に触れたから、それで機嫌が悪くなったのか! うん、それしか考えられない。ったく、図体はデカいくせに、そういうところは小さいんだよなぁ〜) 勝手な理由を見つけると、|墨余穏《モーユーウェン》は妙に自分で納得してしまい、それ以上追求するのをやめた。 |師玉寧《シーギョクニン》のことを考えていたら、あっという間に金龍台門へ繋がる賑やかな下町に到着し、|墨余穏《モーユーウェン》は久しぶりに絢爛華麗な雰囲気を肌で感じた。 金龍台門のお膝元となるこの下町は、昔から商いの町として知られ、出店で賑わっている。華やかさゆえに妓楼も多く存在し、客を捕まえやすいのか、昼夜関係なく酒楼の前で首元をはだけさせた若い女たちが立っている。|墨余穏《モーユーウェン》の目の前にも、待ち構えていたかのように一人の仙姿玉質な妓女がふらふらとやって来た。 「そこのお兄さん、お一人? もし良かったら私と一緒に遊ばない?」 「あははっ、美人さんからのお誘いを断るのは忍びないけどごめん。今から金龍台門へ行かなきゃならないんだ。それに、先に行っちまった美人を今度こそ怒らすとまずいから、もう行かないと」 「そっかぁ〜、お兄さん彼女いるんだぁ〜、残念! でも、ちょっとだけ。だめ?」 妓女は墨余穏の腕を掴み、大きな果実のような胸を擦り付けながら、上目遣いで引き止める。 「ごめんよ、お姉さん。他を当たってくれないか」 |墨余穏《モーユーウェン》は苦笑いをしながらそっと腕を引き抜き、駆け足でその場を後にした。 (危ない危ない。こんな所で道草食ってる場合じゃないんだ。早く|金冠明《ジングァンミン》のところへ行かないと、待た